鎌倉ペンクラブ会長 伊藤玄二郎
第二次の鎌倉ペンクラブが設立されて十年経ちました。第二次というからには、一次について少し触れなくてはいけません。
そもそも「鎌倉文士」、作家の「鎌倉組」などと称されるようになったのはいつのことでしょうか。残念ながら明確な記録はありませんがその端緒は、大正末期からこの地に居を定めた、里見弴、久米正雄の存在にあることに間違いありません。
中村光男「老いの微笑」のなかに「鎌倉に暮らして」という随筆があります。
「震災後しばらくごぶさたした鎌倉に、昭和の初め頃からまた行くようになり、間もなく住みつきました。『鎌倉文士』などという言葉ができた頃で、文学青年にも住みよい町だったからです。今から考えると、その時代が一番なつかしく思い出されます。」
中村が、鎌倉に腰を据えたのは昭和七年ですので、そのころすでに、鎌倉文士と呼ばれる大方の作家たちはこの地に住みついていたと思われます。
「鎌倉ペンクラブ」についても、これも設立の時期を裏づける確かな資料がありません。手元に、昭和三十六年三月の鎌倉ペンクラブの解散通知があります。
前略
昭和八年以来の永きに伝統をもつ鎌倉ペンクラブも、会費の滞納者多く(その原因が幹事の怠慢にあるか、会員の無関心にあるかは問はず)、永らく有って無きに等しき存在を続けて参りまして、今や自然消滅に瀕して居るかに存ぜられますので、いつそこの際解散して了つては如何かと、小島、大仏両長老や、幹事諸君にも諮りましたところ、早速のご同意を得ました。然る上は、改めて総会を開くにも及ばないことと存じ(よしんばそうしたところで、参集者が僅少なる事明白なるが故)、茲に会長の名に於て、当クラブの解散を御通告申し上げる次第です。なを多少のご異存もあらうかと存じますが、この際、それに対しての御答弁は、一々申し上げかねますことを御諒承下さい。
三十六年三月
会長 里見 弴
いかにも里見弴先生の気性を物語る文章です。
昭和八年は、奇しくも『文學界』創刊の年です。小林秀雄を中心として林房雄、川端康成、深田久弥など主力メンバーは、鎌倉の谷戸を挟んだ隣組といえる距離のなかに住んでいました。そういうことを考慮してみると、鎌倉ペンクラブの設立を昭和八年と考えてもよいかもしれません。
昭和十三年四月現在の鎌倉ペンクラブの名簿があります。この年の会長は久米正雄。幹事は、永井龍男、大島十九郎、菅忠雄、深田久弥。事務所は深田宅とされています。会則は次の通りです。
これだけ豪華な顔ぶれからすれば、何か大きな文化運動も可能だったと思われます。しかし、鎌倉ペンクラブの活動はさして特筆するものはありません。年に一度か二度発行されたと思われる「鎌倉ペンクラブ会報」にあるのは、会員の消息と、目をひくのは中原中也の葬儀に花を贈ったぐらいのことです。鎌倉ペンクラブは当初より、文学的目的のために結成されたものではなく、たまたま職業を同じくする人間の友好的な集まりであったわけです。
第二次鎌倉ペンクラブの設立の動機も同じようなことでした。三木卓さんの呼びかけで或る日、かまくら春秋社の一室に三木さん、井上ひさしさん、そして私の3人が集まりました。
三木さんがあの穏やかな口調で「鎌倉ペンクラブをつくって仲良く飲んだり遊んだりしたくない?」と切り出しました。井上さんは「気楽な会がいいですね」と言いました。私は第一次鎌倉ペンクラブの轍を踏まないように会則はきちっと作りましょうと提案しました。「でもゆるやかな会則で頼みますよ」と三木さんは付け加えました。
会則づくりは当時鎌倉観光協会の会長をやられていた元福岡高等検察庁の検事長、プロ中のプロの石川陽弁護士にお願いしました。
十年この会則を運用してみると一見ゆるやかに見えますが、締めるべきところはビシッと締まっていて、とても実用的であることを実感しています。
鎌倉ペンクラブ設立記念に鎌倉生涯学習センターで三木さん、井上さん、安西篤子さん、そして私で公開の座談会をやりました。会の最後に三木さんが会場の市民の皆さんに向って「私たちヘンな生き物」をお助けいただきたいと発言して笑いを誘いました。
さて、文化的な活動に興味のある皆さん、第一次鎌倉ペンクラブの会則にあるような「文筆に携わる紳士淑女」である必要はありません。「ヘンな生き物」で結構ですので仲間になりませんか。
二〇一二年四月発行 鎌倉ペンクラブ会報NO.七
第二次鎌倉ペンクラブ十周年特別編集号より